『はなのすきなうし』(1936年)と同じく1930年代から愛されている古典、『げんきなマドレーヌ』(原書は1939年)は、パリの寄宿舎に暮らす女の子、マドレーヌが活躍するシリーズの第1作目だ。
親子で週末、久々にパリに行ってきたので、この絵本を読み返した。舞台として描かれているコンコルド広場やエッフェル塔の風景は、今もあまり変わっていなくて、パリ気分を反芻できる。
瀬田貞二の名訳でマドレーヌと訳されている主人公の名前は、原語ではマデラインだ。
構想の段階では、妻の名前と同じマドレーヌ(Madeleine)とだったが、韻を踏んだ詩の形の文章が書きやすいように、2番目の「e」を落としてマデライン(Madeline)としたという。
つたの絡まるパリの寄宿舎に、12人の女の子たちが暮らしている。
そのうち、いちばん小さくて、いちばん勇敢な女の子が、マドレーヌだ。
台所に出るネズミも動物園のトラも怖がらないマドレーヌだが、病には勝てない。ある晩、盲腸炎になり、病院に運ばれて手術を受ける。
Madeline woke up two hours
later, in a room with flowers.
Madeline soon ate and drank.
On her bed there was a crank.
And the crack of the ceiling had the habit
of sometimes looking like a rabbit.
Outside were birds, trees and sky....
And ten days passed quickly by.
2じかんご、マドレーヌがめをさますと
へやには はながかざられていました。
すぐに たべたりのんだりできました。
ベッドは かくどをかえられるハンドルつきでした。
てんじょうのわれめが
うさぎみたいにみえました。
そらには とりがとび まどのそとには きがそびえています....
あっというまに とおかかんが すぎました。
窓辺にピンクの花の鉢植えが飾られ、寝ていると大きなうさぎの形の天井画のような割れ目が見えて、空からお日様が微笑む病室の絵は、マドレーヌの目線から描かれていて、幸福感に満ち溢れている。
思いがけず訪れた入院生活。ふだんの生活を離れて、一人ぼっちの静かな非日常を楽しむ哲学的な態度を、尊敬せずにはいられない。
さらに、マドレーヌはその後お見舞いに来た寄宿舎の仲間たちに、お腹の傷を見せて自慢する。勲章のように。
ちなみに私の友人のイタリア人(40代女性)も、盲腸で入院手術後、お腹の傷を見せてくれたので、珍しいことではないようだ。でも、マドレーヌは友だちみんなをうらやましがらせたところから、心底誇らしげだった様子が伝わってくる。
詩のような文体で語られる物語に加えて、走りがきしたような独特の画風の絵がとても素敵。
ところで、12人の仲間のうち、マドレーヌ不在で11人になったはずなのに、物語の終盤の寄宿舎で、お見舞いから帰ってきた11人の女の子たちが食事をする場面になると、12人が描かれている。その後、歯磨きの場面では、再び11人になっている。
作者のいたずら? はたまた作者も編集者も気づかなかっただけ? 12人問題に気づいた読者は少なくないし、作者も少なくとも出版後には意識していたといわれている。でも真相はわからない。
いずれにしても、1930年代アメリカの出版界はずいぶんのんびりとしたものだったのだろう。そして、こんな「欠陥」すらも、この絵本をさらに個性的でチャーミングなものに見せてくれているように思える。マドレーヌの手術跡のように。
作者の孫ジョン・ベーメルマンス・マルシアーノとの共著『ベーメルマンス マドレーヌの作者の絵と生涯』によると、ニューヨークに暮らしていた作者ルドウィッヒ・ベーメルマンス(1898〜1962)は1938年、妻マドレーヌと当時2歳半の一人娘バーバラを連れて、フランスを旅した。これが、マドレーヌ誕生のきっかけになった。
旅行の初めに訪れたパリはとりわけ気に入ってその後も再訪し、50年代には別荘を構えることになった。
パリの後に訪れた南フランスのユー島では、自転車に乗っていて、当時島で一台しかなかった自動車と衝突して負傷し、入院生活を送った。このときの病室は天井の割れ目がうさぎのように見え、隣の病室には、盲腸の手術をした女の子が入院していたという。
ベーメルマンスは帰国すると、パリを舞台に、修道院学校でいちばん小さくて、いつもトラブルに巻き込まれる女の子の絵本を描き始めた。
マドレーヌの人物像には、自分の母親と、妻と娘、そして自分自身が投影されていたと、のちに語っている。
『マドレーヌのクリスマス』のブログで書いたように、ベーメルスマンは母子家庭で育ち、反抗的な態度からドイツの学校を退学処分になり、16歳で単身ニューヨークに渡った。クリスマスイブの港に迎えに来ているはずの父は姿を見せなかった。
親元を離れて暮らし、小さいけれど勝気なマドレーヌは、そんな子ども時代の自分を描いたものでもあるのだ。
ベーメルマンスは『げんきなマドレーヌ』の原稿を、かつて自分の絵を見て絵本作家になるよう勧めてくれたバイキング・プレス社の編集者メイ・マッシーに送った。添えた手紙には「子どものための本であって、知性のない人のための本ではない」と書いている。
マッシーは、原稿を却下した。ジョン・ベーメルマンス・マルシアーノは、「子ども向けには洗練されすぎていると判断したからか、あるいは絵がコミック風だったからか、もしくはその両方の理由で」の判断だったと分析している。
幸い、本はサイモン・アンド・シュスター社から、パリ旅行の翌年にあたる1939年に出版された。
その後、ベーメルスマンは『ロンドンのマドレーヌ』(1961年)まで5冊の続編を発表した。
ベーメルマンスの死後、ジョン・ベーメルマンス・マルシアーノが作風を引き継いでさらに数冊の続編を発表している。