清水玲奈の絵本覚書-翻訳家のノート

ロンドン在住ジャーナリスト・翻訳家が、イギリスで出会い心酔した絵本を深読みします。(旧 清水玲奈の英語絵本深読み術) 英語と、ときどきフランス語、イタリア語の絵本を読んでいます。 一生の友達になってくれる絵本を厳選し、作家の想いや時代背景について、そのとき調べたこと、考えたことを覚え書きしています。 毎月第一金曜日の更新です。 (明記しない限り、日本語訳は私訳です)

本当の自分になれる絵本

『続 ぼくを探しに ビッグ・オーとの出会い』または『はぐれくん、おおきなマルにであう』

The Missing Piece Meets the Big O
Silverstein, Shel
HarperCollins
1981-03-01



続ぼくを探しに ビッグ・オーとの出会い
シェル・シルヴァスタイン
講談社
1982-07-01


はぐれくん、おおきなマルにであう
シェル・シルヴァスタイン
あすなろ書房
2019-11-11



シェル・シルヴァスタインの『続ぼくを探しに ビッグ・オーとの出会い』(倉橋由美子訳、1982年)は、『ぼくを探しに』の続編。
この続編のみ『はぐれくん、おおきなマルにであう』という題名の村上春樹訳が2019年に出て、両方の本が新しい読者を得ている。
原書発売は奥付によると1981年、村上春樹訳版の訳者後書きでは1970年代末とされている。
40年近い年月が経ち、世の中も人間の生き方もすっかり変わってしまったように見える今、なお新鮮に読めるのは、シンプルがゆえにさまざまな解釈が可能なストーリーと絵のおかげだろう。

『ぼくを探しに』ではパックマンのような形の主人公が、放浪しながら、自分に欠けた部分を埋めるかけらを探していた。
『続ぼくを探しに ビッグ・オーとの出会い』では、自分にぴったりの「かけら」(村上春樹訳では「はぐれくん」)の視点から描かれる。

『ぼくを探しに』の「ぼく」がかけらを探して転がっていたのとは対照的に、「かけら」は、路上でじっとして、自分がぴったりはまる相手が迎えに来てくれる日を待っている。
次々と、かけら探し中らしき候補がやってくるものの、どこか難あり。
結局ぴったりの相手は見つからない。
そして、ついに、欠けたところのない「ビッグ・オー」(村上訳では「おおきなマル」)が登場するのは、物語も後半に入ってからのことである。
クライマックスとなるのが、ふたりの会話が展開する見開きだ。

“I think you are the one
I have been waiting for,”
said the missing piece.
“Maybe I am your missing piece.”
“But I am not missing a piece,”
said the Big O.
“There is no place you would fit.”

“That is too bad,” said the missing piece.
“I was hoping that perhaps
I could roll with you….”

“You cannot roll with me,”
said the Big O,
“but perhaps you can roll by yourself.”

ここは倉橋由美子訳(1982年)ではこうなる。
「ぼくが待っていたのは
君らしい」
とかけら
「ぼくは君の足りないかけらかもしれない」
「でもぼくはかけらなんか探していない」
とビッグ・オー
「君のはまるところなんてないんだよ」

「そいつは残念」とかけらはいった
「君とならころがれるかもしれないと思ったのに……」
「ぼくと一緒にころがるのは無理だ」
とビッグ・オーは言う
「君ひとりならころがっていけるかもしれない」


倉橋は、前作『ぼくを探しに』と同様、この作品を「大人のための童話」と位置付け、訳文では漢字も使って表記している。
訳者後書きは、「邪道」と断った上で、「かけらの方が男」で、「自分にぴったりの女を探し求める」物語であり、ビッグ・オーは「自立した女」なのだという解釈を披露している。
80年代初頭の時代背景を思わせる読み方だけれど、あるいは、シェル・シルヴァスタインがこの作品を発表したのも同時代なので、実はそれほど邪道ではないのかもしれない。

一方で、近年の村上春樹訳(2019年)はこうだ。
「きみこそが ぼくの
まっていたものだとおもうな」
と、はぐれくんはいいました。
「ぼくが きみの たりないぶぶんじゃないかな」
「でもぼくには、たりないぶぶんってないんだよ」
と、おおきなマルはいいました。
「きみが ぴったりおさまるところが ないんだ」

「それはこまったね」と はぐれくんはいいました。
「きみとならうまく
ころがれるとおもったんだけど……」
「きみは ぼくといっしょにはころがれないよ」
と おおきなマルはいいました。
「でもきみは たぶん じぶんだけでころがれるよ」


倉橋訳では「ビッグ・オー」と「かけら」が対等なやり取りをしていたのに対して、村上訳では、「おおきなマル」がいわば上から目線で、他人に頼ろうとする「はぐれくん」に対して説教しているふうにも感じられる。
村上訳は、子どもの読者も意識して、ひらがなとカタカナだけで書いている。
村上は原書を「子供が読んでも素直に面白く、大人が読んでもそれなりに感じるところの多い、すぐれた読み物」(訳者後書きより)と位置づけ、次のように解説している。

マルくんもはぐれくんも、「大事なのはふさわしい相手(他者)を見つけることではなく、ふさわしい自分自身を見つけることなんだ」と悟ります。そしてようやく心穏やかな、平和な境地に到達します。哲学的ですね。

確かに、はぐれくんとおおきなマルが、それぞれ自立して、転がっていくという結末は一見、「心穏やかな、平和な境地」のハッピーエンドのようだ。
しかし同時に、とんがっていたはぐれくんが、おおきなマルを模倣するかのように角が取れて文字通り丸くなるのが、本当に「ふさわしい自分自身を見つけること」だったと言えるのだろうか……という疑問がわいてくる。

そして、この作品は、親子がお互いの位置付けを模索する過程についての寓話にも読める。
途中、転がってきた相手(親のあり方?)にぴったりとはまったように見えたかけら(子ども?)が大きくなりはじめたとき、「君が大きくなるなんて知らなかったよ」と言う相手に対して、かけらは「ぼくだって」と返す(倉橋訳)。これはまるで、子どもが親の思惑を超えて成長し、そして自分も予想がつかない方向へと殻を破って自立への道を歩む過程のようだ。

しかしかけらは、結局ミニ大人のように、丸くなってしまい、そして、転がり始める。
8歳の娘は、最後の場面で、すっかり角が取れてビックオーにそっくりになったかけらを、「リトル・オー」と呼んだ。
親は、子供を自分の小型版に仕立て上げようとしがちだ。本当は、とがった個性を失わないまま、しかしそれでも世の中を渡っていけるように、手助けしてあげるべきなのに。

……などと考え始めるとキリがない。
原書を読んで、そして時代も思想もジェンダーも違う2人の優れた翻訳者による翻訳を読んで、物語をさまざまな方向から味わい、あれやこれやと思いを巡らすことのできる日本の読者は幸せ者と言うべきだろう。
この作品はそんな読み方がふさわしい多層的な絵本である。

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大人のための絵本? 『ぼくを探しに』を子どもが手に取るとき

The Missing Piece
Silverstein, Shel
HarperCollins
1976-03-01



新装 ぼくを探しに
シェル・シルヴァスタイン
講談社
1979-04-12



アメリカの作家・ミュージシャンのシェル・シルヴァスタイン(1930〜1999)による『ぼくを探しに』(原書は1976年)は、シンプルであるがゆえにいろいろな読み方ができる絵本だ。倉橋由美子訳(1977年、講談社)では漢字も多く使われていて、日本では特に、70年代カルチャーを代表する大人の絵本として紹介されてきたようだ。
原書のタイトルは『The Missing Piece』。「あるべきなのに足りない部分」という意味だ。

同じ作者の「大きな木」と同様のペンのシンプルな線画で描かれるのは、一切れだけ切り取った後のピザみたいな形の主人公だ。「It」とだけ紹介されるから性別はないはずだが、倉橋訳では「ぼく」と訳され、一人称で物語は展開する。ここでは、日本で倉橋の名訳によってロングセラーになっていることを考慮して、倉橋訳で紹介する。

It was missing a piece.
And it was not happy.
何かが足りない
それでぼくは楽しくない

So it set off in search of its missing piece.
足りないかけらを探しに行く

And as it rolled
it sang this song-
ころがりながら
ぼくは歌う

"Oh I'm lookin' for my missin' piece
I'm lookin' for my missin' piece
Hi-dee-ho, here I go,
Lookin' for my missin' piece."
「ぼくはかけらを探してる
足りないかけらを探してる
ラッタッタ さあ行くぞ
足りないかけらを探しにね」

主人公は探求の末にちょうどいいかけらに出会って、それをはめて完全な丸になるのだが、その結果、かえって転がりすぎるし歌も上手く歌えなくなる。
それが嫌になり、出会った時は相性抜群と思ったかけらと、結局さよならすることを決める。
「ぼくはかけらを探してる」の歌を再び歌って、「そして人生は続いていく」というかのように、物語は終わる。

原書の出版社ハーパー・コリンズによるシェル・シルヴァスタインの公式サイトでは「探求と充足の本質を優しく探る魅力的な寓話」とされている。
本の最初にある献辞は、原文では「for Gerry」(ジェリーに)となっているが、倉橋訳は「だめな人とだめでない人のために」。訳者後書きによると、これは作者自身がどこかでこの本について述べた言葉なのだという。
倉橋は本について、充足感や理想の結婚などについての物語だという解釈の可能性に触れた上で、「大人にはその種の単純な童話が必要である」と述べる。
さらに、「子供にはこの絵本が示しているような子供の言葉では言いがたい複雑な世界が必要なのではないか。その世界を言い表す言葉を探すこと、これも子供にとってはmissing pieceを探すことに当る」と分析する。

さて、この絵本はずっとわが家の本棚にあったのだが、最近「周囲と自分が違う」という体験をして悩んでいた8歳の娘が、わざわざ学校の図書館で借りてきて、「これうちにもあったよね」と私に見せた。
娘は何かを訴えたいのかもしれない、と思った。「子供の言葉では言いがたい複雑な世界」に一歩踏み出してしまった悩める娘が、この絵本を親である私に差し出したのは、偶然ではなさそうだ。
私たち親子はこの絵本を、日本語と英語で、交代で一緒に音読した。娘は「ぼく」の歌を英語でリズミカルに繰り返して、ちょっと気分が晴れたようだった。
人生がうまくいかないとき、いちばんの友達になってくれるのは、完璧な「かけら」などではなく、一冊の本なのかもしれない。

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LGBTQ+の定番絵本、エリック・カールの『とうさんはタツノオトシゴ』

Mister Seahorse: board book (World of Eric Carle)
Carle, Eric
World of Eric Carle
2011-03-03



とうさんはタツノオトシゴ
エリック カール
偕成社
2006-09-01



プライド月間の6月になるとイギリス各地の一般の書店に登場するLGBTQ+の特設コーナー。そこに欠かせないのが、エリック・カール作・絵の『とうさんはタツノオトシゴ』(原書は2004年)である。
ロンドンの老舗ゲイズ・ザ・ワード(Gay`s the Word)をはじめとするゲイ書店の絵本の棚にも必ず置かれている。

いまだにお母さんの子育てを描く絵本が圧倒的に目につく中で、お父さんが子育てをする海の生き物たちを描いたこの絵本は、貴重な存在なのだ。

薄紙の切り絵によるイラストは、『はらぺこあおむし』と同様、色彩の美しさが目に鮮やか。そして、透明のアクリルにサンゴや海藻、岩を描いたページがところどころに挟まっていて、それを重ねたときとめくったときで絵が違って見える仕掛け絵本になっている。
また、海の生き物が次々と登場し、それぞれユニークな子育ての方法を見せてくれる科学絵本でもある。

Mr and Mrs Seahorse drifted gently through the sea.
Mrs Seahorse began to wiggle and twist, this way and that.
"It's time for me to lay my eggs," she said.
"Can I help?" asked Mr Seahorse.
"Oh, yes. Thank you! said Mrs Seahorse and she laid her eggs into a pouch on Mr Seahorse's belly.
"I'll take good care of our eggs," said Mr Seahorse, "I promise."
タツノオトシゴのおとうさんとおかあさんが、ゆっくりとうみのなかを さんぽしていました。
すると タツノオトシゴのおかあさんが、くねくねと もがきはじめました。
「たまごが うまれそう」 おかあさんは いいました。
「てつだって あげようか」 おとうさんは いいました。
「おねがいするね。ありがとう」 タツノオトシゴのおかあさんは そういうと、おとうさんのおなかのふくろに たまごを うみました。
「たまごを だいじにまもるね」と、おとうさんはいいました。「やくそくするよ」 

ここで、おなかとおなかを重ね合わせているタツノオトシゴ夫妻は、ちょっと驚いたような丸い目で見つめ合っている。

こうしておなかに卵を抱いたミスター・タツノオトシゴは、海中散歩に出かける。
トゲウオのお父さんは、お母さんが卵を産みつけた巣を守っている。
ティラピアのお父さんは、口の中に卵を抱いている。
コモリウオのお父さんには、頭に卵をくっつけて泳ぐ。
タツノオトシゴに似たヨウジウオのお父さんは、細長い体の側面に卵をつけている……。

英語の読書サイトを見ていると、この絵本に込められたメッセージを賞賛する声が多い一方で、物語を批判する声も聞かれる。
たとえば、どの魚も結婚していて「ミスターとミセス」の組み合わせであることを古くさい価値観だと疑問視する人もいれば、ブルヘッドナマズのおとうさんが「I'm babysitting(ベビーシッターをしているんだ)」と言うことについて「自分の子どもの面倒を見るのはベビーシッターじゃない」という意見もある。また、タツノオトシゴのお父さんが、卵がかえった途端に子どもたちを独り立ちさせることについても「育児放棄」と怒る人がいる。

しかし、これは海の生物の生態を驚嘆を込めて紹介する絵本であり、人間社会と同じ基準をあてはめて批判するのは筋違いだ。
エリック・カールは、『はらぺこあおむし』でチョウの変態を、『ちいさいタネ』で植物のライフサイクルをポエティックに描いた。
『とうさんはタツノオトシゴ』にも、生き物が大好きな子どもと同じような視線は健在だ。タツノオトシゴほかの魚たちの子育てのおもしろさを、純粋な好奇心に基づいて描いている。

絵本の裏表紙に、作者はこんなメッセージを寄せている。

親愛なる友人たちへ
ほとんどの魚は、母親が卵を産んで、父親が精子をかけると、卵をそのまま放置します。
でも、タツノオトシゴ、トゲウオ、ティラピア、コモリウオ、ヨウジウオ、ブルヘッドナマズなどは例外です。
親が卵を守るだけではなく、驚いたことには、お父さんがその役割を果たすのです。
奇妙に思われるかもしれませんが、本当なのです。
そして、これをお話にしたのがこの絵本です。
楽しんでもらえたらうれしいです。
 --エリック・カール

この絵本が発表されたのは2004年。
イギリスでは2014年に同性婚が合法化された。アメリカでは、やっと2022年になって、同性婚や異人種同士の結婚が連邦法で合法化された。ジェンダーに関する法律も、そして、一般の意識も、非常にゆっくりとではあるが、前進している。
そんな中、子どもの絵本の世界にも、もっと自由な意識が浸透してほしいと思う。
『とうさんはタツノオトシゴ』が重要なのは、生き物の生態と美しさを優れたアートで表現した絵本の中に、自然界においても男女の役割は定まっていないという事実が読み取れるからこそなのだと思う。

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子どもの不安の深刻さを受け止める『びくびくビリー』

Silly Billy
Browne, Anthony
Pearson Education Limited
2007-11-05



びくびくビリー (児童図書館・絵本の部屋)
アンソニー ブラウン
評論社
2006-09-01



『びくびくビリー』(原題は2006年)の原題は「Silly Billy」。英語では「おばかさん」という意味で使われる慣用句。
原題の雰囲気を、「びくびくビリー」という頭韻を踏む邦題は絶妙に伝えている。

絵本の主人公はビリーという気の弱そうな少年。いつも困っているような顔をしている。心配症だし、身の回りのありふれたものがこわくてたまらない。
ビリーがいる子ども部屋を、帽子が飛び回り、靴が勝手に歩き回り、大きな雲が襲いかかる様子を描いた絵の下に、シンプルなFuturaのフォントでやはりシンプルな短い文章が添えられている。
部屋の光景は、マグリットが描いたシュルレアリスムの絵のようでもあり、お化け屋敷のようでもある。

でもビリー本人の悩みは深刻だ。お父さんやお母さんは優しいが、その深刻さを受け止めてはくれない。ビリーの気持ちをわかっていないらしく、おばあちゃんちに一人でお泊まりさせる。よその家で寝るのはとりわけ怖いというのに。
やはりビリーは寝付けない。ちょっとはずかしかったけれど、とうとう起き出して、おばあちゃんの部屋に行く。

"Well fancy that, love," she said.
"You're not silly. When I was your age I used to worry like that.
I've got just the thing for you."
「まあ、そうだったの」と おばあちゃんはいった。
「ぜんぜん はずかしくないよ。おばあちゃんもね、ちいさいころは、やっぱりこわかったよ。
ビリーにぴったりなものをあげるね」

身をかがめて小さなビリーの話を聞くおばあちゃんは巨体で描かれていて、ビリーにとって頼もしい存在であることが伝わってくる。
次のページでは、おばあちゃんが取り出してきたものをビリーに見せてくれる。絵は、その小さな魔法の仕掛けを手のひらに乗せた様子のクローズアップだ。

"These are worry dolls," she explained.
"Just tell each of them one of your worries and put them under your pillow. They'll do all the worrying for you while you sleep."
「これはしんぱいにんぎょう」とおばあちゃんはせつめいした。
「ひとりにひとつずつ しんぱいなことをおしえてあげたら、まくらのしたに いれるだけでいいの。そうすれば、ねているあいだに、ぜんぶ かたづけておいてくれるよ」

その晩から、ビリーはぐっすり眠れるようになる。
ところが、繊細な心の持ち主のビリーは、しんぱいにんぎょうの心配が気がかりになってしまう。
最後は自分の力で、人形に思わぬ恩返しをしてあげる。
ビリーは、無力感をすっかり克服して笑顔になる。

絵本の最後には、「しんぱいにんぎょう」についての解説がある。
表紙の「SILLY」の「I」の字の部分に描かれているのがその人形だ。
グアテマラの伝統で、指の先ほどの大きさの木片と、布切れと糸でできている極小の人形。グアテマラでは子供が自分で手作りして、夜寝る前に心配事を打ち明け、枕の下に入れて眠るという習慣がある。そうすれば、寝ている間に心配はなくなる、というわけ。

私も、30年ほど前にハワイの民芸店で買った自分の「しんぱいにんぎょう」を持っている。アメリカの児童心理学者ローレンス・J・コーエンが書いた本『Playful Parenting』(2012年)によれば「(アメリカでは)数年前に子どもたちの間で流行ったことがある」とある。
すっかり色褪せた黄色い箱に納められた6体の人形は、いつの間にか、5体になっている(私がある晩枕の下に入れて、心配と一緒にその人形のことも忘れて、なくしてしまった。お人形には申し訳ないけれど、その心配がなんだったかすら忘れてしまった。効果絶大!)。
そして、今では7歳の娘のものだ。「母ちゃんにも言いたくない」という心配事や悪夢は、人形に打ち明ける。
子どもの悩みや不安をそのまま大人が理解することは不可能かもしれない。だからこそ、本人にとっては深刻だということを、ビリーのおばあちゃんのようにわかってあげたいし、たとえば人形という形で、共感を伝えることが大切なのではないかと思う。

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子どもの悩みにそっと寄り添う『アルド・わたしだけのひみつのともだち』

ALDO - GLB
Burningham, John
Knopf Books for Young Readers
1992-02-01



アルド・わたしだけのひみつのともだち
ジョン バーニンガム
ほるぷ出版
1991-11-01



ジョン・バーニンガム(1936-2019)による絵本『アルド・わたしだけのひみつのともだち』(原書は1991年)は、シンプルな言葉遣いとストーリーながら、切なく胸に迫る絵本だ。
「わたし」は、ひとりぼっちの女の子。

I'm lucky though. I'm really very very lucky because I have a special friend.
His name is Aldo.
Aldo is my friend only, and he's a secret.
でもわたしは、うんがいい。ほんとうに、とってもうんがいい。だって、とくべつなともだちがいてくれるから。
そのこのなまえはアルド。
アルドはわたしにしかみえないともだち。ひみつのともだちだ。

女の子と同じ背の高さのグレーのうさぎが、むっつりした顔で肩を組んでいる。
服は着ていないが、首に白と緑のボーダー柄のえり巻きを巻いている。
アルドは、いつもそばにいて、「わたし」の味方になってくれる。

I know he will always come to me when things get really bad.
Like when they were horrid to me the other day.
I'm sure they went away because Aldo came.
ほんとうにいやなことがあったときは、かならずアルドがきてくれるって、わたしはしっている。
このまえもみんなにひどいことをされた。
みんながいっちゃったのは、きっとアルドがきてくれたおかげだよ。

学校でいじめられたとき。
家で、女の子の 両親がけんかに夢中で、全然かまってくれないとき。
嫌な現実を変えることはアルドにもできない。なぜなら、アルドは女の子にしか見えない存在だから。
それでも、公園でひとりぼっちでブランコを漕ぐ女の子の背中を押してくれる。
夜、嫌な夢を見たときには、本を読んでくれる。
一緒に太陽がいっぱいの野原で手に手を取って走ったり、夜の湖でボート漕ぎをしたりもしてくれる。

いじめられっ子ではないし仲良しの友達が複数いる私の娘(7歳)も、この絵本を時折密かに読んでいる。なぜか、私とは一緒に読もうとしない。秘密の友達みたいな絵本だからか。
そして、そんな娘にも、嫌な思いをしているときだけ、突然登場する秘密の友達がいる。「アキヤくん」という名前の男の子だ。最初にアキヤくんが登場したのは4歳の頃。
ピアノの練習がうまくいかないとき。
やらなきゃいけないことは知っているけれど、どうしても、宿題がやりたくないとき。
泣いたり叫んだりした後、落ち着いた頃に、「あれは私じゃなくて、アキヤくんだったの」と、にっこりして言う。「ほんとに困った子だよね」
いつも表情を変えることもなく落ち着いていて静かなアルドとは違って、娘の「ひみつのともだち」アキヤくんは、いつも大騒ぎをする迷惑な子だ。
それでも、嫌なことがあったとき、アキヤくんのせいにすることで、後から笑うことができる。母親の私もそれでちょっと救われる。そして、自分にもそんな秘密の友だちがいたらいいのにな、と密かにうらやましく思う。
子どもの世界は仕事も税金もなくて大人からは気楽に見えるけれど、実際には、子どもの抱く悲しみや不安は大人のそれと同じかそれ以上に深刻なのだ。そんな子どもの気持ちを想像させてくれる絵本でもある。

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