シェル・シルヴァスタインの『続ぼくを探しに ビッグ・オーとの出会い』(倉橋由美子訳、1982年)は、『ぼくを探しに』の続編。
この続編のみ『はぐれくん、おおきなマルにであう』という題名の村上春樹訳が2019年に出て、両方の本が新しい読者を得ている。
原書発売は奥付によると1981年、村上春樹訳版の訳者後書きでは1970年代末とされている。
40年近い年月が経ち、世の中も人間の生き方もすっかり変わってしまったように見える今、なお新鮮に読めるのは、シンプルがゆえにさまざまな解釈が可能なストーリーと絵のおかげだろう。
『ぼくを探しに』ではパックマンのような形の主人公が、放浪しながら、自分に欠けた部分を埋めるかけらを探していた。
『続ぼくを探しに ビッグ・オーとの出会い』では、自分にぴったりの「かけら」(村上春樹訳では「はぐれくん」)の視点から描かれる。
『ぼくを探しに』の「ぼく」がかけらを探して転がっていたのとは対照的に、「かけら」は、路上でじっとして、自分がぴったりはまる相手が迎えに来てくれる日を待っている。
次々と、かけら探し中らしき候補がやってくるものの、どこか難あり。
結局ぴったりの相手は見つからない。
そして、ついに、欠けたところのない「ビッグ・オー」(村上訳では「おおきなマル」)が登場するのは、物語も後半に入ってからのことである。
クライマックスとなるのが、ふたりの会話が展開する見開きだ。
“I think you are the one
I have been waiting for,”
said the missing piece.
“Maybe I am your missing piece.”
“But I am not missing a piece,”
said the Big O.
“There is no place you would fit.”
“That is too bad,” said the missing piece.
“I was hoping that perhaps
I could roll with you….”
“You cannot roll with me,”
said the Big O,
“but perhaps you can roll by yourself.”
ここは倉橋由美子訳(1982年)ではこうなる。
「ぼくが待っていたのは
君らしい」
とかけら
「ぼくは君の足りないかけらかもしれない」
「でもぼくはかけらなんか探していない」
とビッグ・オー
「君のはまるところなんてないんだよ」
「そいつは残念」とかけらはいった
「君とならころがれるかもしれないと思ったのに……」
「ぼくと一緒にころがるのは無理だ」
とビッグ・オーは言う
「君ひとりならころがっていけるかもしれない」
倉橋は、前作『ぼくを探しに』と同様、この作品を「大人のための童話」と位置付け、訳文では漢字も使って表記している。
訳者後書きは、「邪道」と断った上で、「かけらの方が男」で、「自分にぴったりの女を探し求める」物語であり、ビッグ・オーは「自立した女」なのだという解釈を披露している。
80年代初頭の時代背景を思わせる読み方だけれど、あるいは、シェル・シルヴァスタインがこの作品を発表したのも同時代なので、実はそれほど邪道ではないのかもしれない。
一方で、近年の村上春樹訳(2019年)はこうだ。
「きみこそが ぼくの
まっていたものだとおもうな」
と、はぐれくんはいいました。
「ぼくが きみの たりないぶぶんじゃないかな」
「でもぼくには、たりないぶぶんってないんだよ」
と、おおきなマルはいいました。
「きみが ぴったりおさまるところが ないんだ」
「それはこまったね」と はぐれくんはいいました。
「きみとならうまく
ころがれるとおもったんだけど……」
「きみは ぼくといっしょにはころがれないよ」
と おおきなマルはいいました。
「でもきみは たぶん じぶんだけでころがれるよ」
倉橋訳では「ビッグ・オー」と「かけら」が対等なやり取りをしていたのに対して、村上訳では、「おおきなマル」がいわば上から目線で、他人に頼ろうとする「はぐれくん」に対して説教しているふうにも感じられる。
村上訳は、子どもの読者も意識して、ひらがなとカタカナだけで書いている。
村上は原書を「子供が読んでも素直に面白く、大人が読んでもそれなりに感じるところの多い、すぐれた読み物」(訳者後書きより)と位置づけ、次のように解説している。
マルくんもはぐれくんも、「大事なのはふさわしい相手(他者)を見つけることではなく、ふさわしい自分自身を見つけることなんだ」と悟ります。そしてようやく心穏やかな、平和な境地に到達します。哲学的ですね。
確かに、はぐれくんとおおきなマルが、それぞれ自立して、転がっていくという結末は一見、「心穏やかな、平和な境地」のハッピーエンドのようだ。
しかし同時に、とんがっていたはぐれくんが、おおきなマルを模倣するかのように角が取れて文字通り丸くなるのが、本当に「ふさわしい自分自身を見つけること」だったと言えるのだろうか……という疑問がわいてくる。
そして、この作品は、親子がお互いの位置付けを模索する過程についての寓話にも読める。
途中、転がってきた相手(親のあり方?)にぴったりとはまったように見えたかけら(子ども?)が大きくなりはじめたとき、「君が大きくなるなんて知らなかったよ」と言う相手に対して、かけらは「ぼくだって」と返す(倉橋訳)。これはまるで、子どもが親の思惑を超えて成長し、そして自分も予想がつかない方向へと殻を破って自立への道を歩む過程のようだ。
しかしかけらは、結局ミニ大人のように、丸くなってしまい、そして、転がり始める。
8歳の娘は、最後の場面で、すっかり角が取れてビックオーにそっくりになったかけらを、「リトル・オー」と呼んだ。
親は、子供を自分の小型版に仕立て上げようとしがちだ。本当は、とがった個性を失わないまま、しかしそれでも世の中を渡っていけるように、手助けしてあげるべきなのに。
……などと考え始めるとキリがない。
原書を読んで、そして時代も思想もジェンダーも違う2人の優れた翻訳者による翻訳を読んで、物語をさまざまな方向から味わい、あれやこれやと思いを巡らすことのできる日本の読者は幸せ者と言うべきだろう。
この作品はそんな読み方がふさわしい多層的な絵本である。